私たちは「共謀罪」法案を憂慮しています。

私たちは「共謀罪」法案を憂慮しています

 

政府は、今年3月、「組織的犯罪処罰法」の改正案、いわゆる「テロ等準備罪」法案を国会に上程しました。5月19日、同法案は衆議院法務委員会において採決され、翌週23日には、衆議院本会議においても可決。現在、参議院法務委員会で審議が続いています。

現在の状況では、この法案は成立する可能性が大きくなってきていると言わざるを得ません。

 

今回の法案の正式の名称は「組織的犯罪処罰法改正案」ですが、メディアの中には、これを「テロ等準備罪」と呼び変え、さらに「共謀罪の構成要件を厳しくした」という枕詞をつねに冠して紹介する向きもあります。

逆に、日本弁護士連合会をはじめ、多数の専門家・学者たちが、今回の法案を、2003年以来3度も上程されながら廃案となってきたいわゆる「共謀罪」と本質的に異なるものではない、としており、報道機関の中にも、こうした見解に基づいて、この法案を「共謀罪法案」と呼ぶものも決して少なくありません。最近、国連人権委員会の特別報告者からも、同じような懸念をふくむ公開書簡が安倍総理あてに送られてきました。

 

こうした現状から、私たちは、今回の法案をめぐる議論に対して、これを成立させる方向に踏み出す「機」が、まだ決して「熟していない」、と考えます。

 

私たちはいま、この法案をめぐるこの国の状況を、深く憂慮しています。

 

その憂慮は、三つの点に関わります。

第一は、必要性。つまり、この法案が本当に必要なのだろうか、という問題です。

いわゆる「国連越境組織犯罪防止条約」を批准する「ため」という説明は、当の国連自身が出した立法ガイドによって否定されています。著作権法や森林法のような一般人の日常生活に係る法律にまで、実際の違反行為にいたるはるか以前の「計画」や「準備行為」を罰するようにすることが、本当にテロを防止する「ため」に役立つのか。オリンピックを成功させる「ため」というには、国民に大きすぎる代償を負わせることにならないか。私たちは、この法案の必要性について、もっと心から納得できる説明を求めます。

 

第二は、この法案の内容についての疑問です。人権は、私たちの国が世界の多くの国々と共有する普遍的価値です。その中でもとくに大切にしなければならない「思想の自由」「表現の自由」が、この法律によって変質させられるのではないか。「人権」「思想の自由」「表現の自由」。私たちは、遠くない過去に、私たちの国が、これらの価値を別な価値の下に置き、これらをないがしろにしたために、悔やんでも悔やみきれない代償を払うことになった経験をもっています。この痛切な経験から、私たちの先輩たちは、国に貫くべき「原則」がなければならないことを学びました。それは、第一に「憲法が政治を縛る」立憲主義であり、さらに、刑法においては、「思想を罰せず、行為を罰する」という原則です。多くの識者から提出されている、「今回の法案の内容は刑法の原則を踏み越えている」という指摘は、残念ながら、決して無根拠であるとは思えません。

 

第三は、審議・議論のあり方です。私たちは、「およそ、法律というものは自由を束縛するものである以上、新たに法律を制定しようとするときには、その法律に縛られる一般市民の心からの納得を得なければならない」と信じます。そういう定め方をしてはじめて、「自らが望んだルールに自発的に従う」という「本当の自由」と「安定した秩序」とが両立する社会だと言えるからです。現在の国会内の審議、国会外の報道、国民の間の論議のあり方は、はたして、この法律によって縛られることになる将来世代の人々の前に胸を張れるような、正々堂々、公明正大なものになっているでしょうか。

 

私たちは、今回の「法案」は、成立させるべきでないと考えます。それは、テロリズムの脅威について楽観するからではありません。もし仮に、本当にこのような法律が必要なのだとしても、十分に時間をかけ、百年後の検証にも耐えられるような議論を積み重ねなければ、将来の世代に申し訳が立たないと考えるからです。国家が人権を制限し、官憲が人の心の中に立ち入って支配する道を選んでしまった過去が、どんなに悲惨な災厄をもたらしたか。それは、世界の歴史が記録し、諸国民の良心が記憶し、だれよりも私たち自身が世代を超えて学び・伝え、痛切に心に刻んでいるのですから。

 

2017年6月7日

横浜国立大学 九条の会